根本思想
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同人結社鬼姫狂団世界総本部の成立四原則
同人結社鬼姫狂団世界総本部の思想的特徴は、「偶像即神(ぐうぞうそくしん)」、「萌燃一体(ほうねんいったい)」、「活劇至上(かつげきしじょう)」「童心回帰(どうしんかいき)」という四つの言葉で表すことができます。
偶像即神(ぐうぞうそくしん)
「偶像即神」とは、偶像とは即ち神様であるという考え方です。
ここでいう偶像とは、一般的にキャラクターと呼ばれている架空の存在と意味を同じくします。
人間は、古来より人為的に作り出された像を信仰対象とする、偶像崇拝という精神的な営みの方法を持っています。
偶像は、現実世界に実体を持って存在するものではありませんが、人間の想像力によって生み出された理想的対象であり、極めて純化された至高の存在、つまり神様として崇拝されてきました。
神様は、本来、目で見ることができない隠れた存在ですが、内的な世界においては確実に存在し、信心のあるものに対して何らかの働きかけをし、現世利益を与える力を持っています。
その見えない存在である神様を目に見える形にする営みが、表現というものです。
日本は漫画大国といわれており、数え切れないほどのキャラクターが生み出されています。
そのキャラクターごとに特定の熱狂的ファンがつき、18禁を含む同人二次創作という非合法のスピンオフ作品もあふれています。
キャラクターという現実には存在しない人格に対して、人は愛を注ぐことができます。
そして、限定された唯一のキャラクターだけを絶対化するのではなく、複数のキャラクターを同時に受け入れることもできます。
これは、日本が神道という精神基盤を持っているからであり、あらゆるものを神として認める多神教の側面が強い風土だからこそ成立したものであると考えられます。
つまり、ある特定のキャラクターによる何らかの訴求力によって強い思い入れを持ち得た人は、そのキャラクターに対して神性を見出したといえます。
それと同時に、他のキャラクターに対しても同じく神性を見出すことができるのです。
そして、キャラクターに神を見た以上、その対象は崇高不可侵なものとなります。
キャラクターを邪な性欲のはけぐちにしてはならないし、目先の金銭欲のための一過性の消費物として扱うことも許されません。
キャラクターは、創作者による人為的な産物ですが、その根底には神性が宿っており、仏教における観音菩薩や不動明王などと同列で語られるべき偶像崇拝の現代的な解釈なのです。
それ故に、キャラクタービジネスというものを民俗信仰の延長にあるものと認識し、一種の宗教的な発想を踏まえ、キャラクターは神様であるという立場を明確にしているのです。
萌燃一体(ほうねんいったい)
「萌燃一体」とは、萌えと燃えは分離することなく両立し、一体のものでなければならないという考え方です。
すべての男性は、本来「萌える性質」と「燃える性質」を併せ持っています。
理想的女性像としての偶像に魅力を覚え、疑似恋愛的な感情を抱くことは普遍的なことであり、生殖本能に根拠を持つ極めて自然な営みです。
一方で、理想的男性像としての偶像に魅力を覚え、同一視により英雄願望を満たすことも普遍的なことであり、闘争本能に根拠を持つ極めて自然な営みです。
世間では、萌えを追求した作品と燃えを追求した作品があり、ある程度の住み分けがなされています。
萌えを重視する者は燃えを「熱苦しい」と批判して、燃えを重視する者を「硬派厨」と揶揄する傾向があります。
それとは逆に、燃えを重視する者は萌えを「気持ち悪い」と批判して、萌えを重視する者を「軟派厨」と揶揄する傾向があります。
両者が平行線をたどり、世間で負の対立構造が生じています。
しかし、本来ならば男性の生得的な欲求に従えば、萌えと燃えのどちらか片方をよしとする考え方は偏りがあります。
お互いの優れた部分を両立させることこそが、真に訴求力のある作品を生み出すことができる原動力となると考えています。
萌えによる印象としての「かわいい」と、燃えによる印象としての「かっこいい」は、相反するものではなく和合できるものでなければならないのです。
活劇至上(かつげきしじょう)
「活劇至上」とは、活劇を至上のものとするべきであるという考え方です。
世の中には、古来より連綿と続く物語創作上の定型というものが存在します。
貴種流離譚や異類婚姻譚など、大抵の物語は一定の様式を持っているとされ、その型を一般的に王道と呼びます。
説話文学から現代文芸まで、純文学を除けば、おおよそ記憶に残る名作と呼ばれる作品は、何かしらの王道を踏まえた語り口となっているといってよく、その王道を外した作品は邪道と呼ばれ、酷評の対象となりかねません。
その物語の王道の中でも究極の王道が、勧善懲悪譚です。
勧善懲悪譚は、つまり、善を勧め悪を懲らすという、極めて単純明快な構造を持つ活劇様式です。
今の世の中、何故かこの勧善懲悪が稚拙なものと揶揄され、現実はそう簡単なものではないと、妙に複雑で何が善で何が悪なのか不明瞭な物語が評価されてしまう風潮もあります。
しかし、現実が複雑だからこそ、それを簡潔にして、人としてのあるべき姿を考えて本質を見極めるという営みが必要とされているのではないでしょうか。
わかりやすい内容が多い勧善懲悪は、ともすると幼稚と笑われてしまいますが、遠いご先祖様からずっと伝えられてきた昔話には、このような要素が多く含まれています。
何故それが現代まで残されてきたのかを考えれば、勧善懲悪による活劇が、もっとも普遍的な人としてのあり方を示唆し得る教訓に富んだものであると気づいてきます。
人を殺めてはならない、物を盗んではならない、淫らなことをしてはならないなど、極めて本質的な倫理を伝えようとするからこそ、勧善懲悪は複雑さが徹底的に排除されているのです。
人間は、本来難解なものを嫌います。
教養の豊富さを知識の多さと勘違いして、専門外のことにまで無理に知識をつけることを強要してくる人が一部にいますが、人間、興味関心の外にあるものについては、知識をつけることを難解に感じるものです。
政治、経済、法律、歴史、科学、芸術と、全範囲に詳しい人間などどこにもいませんし、情報の波に飲まれずに、自分の人生にとって何が一番大事なのかを見極める基準を持つことが重要なのです。
物語創作は社会批判でも学術研究でもないのですから、小難しい政治解釈や人権意識などはどうでもいいことであって、楽しめるかどうかが絶対的な価値判断となります。
物語にとって、まずは娯楽性に富むことが正義であり、それ以外の要素は付加価値にすぎません。
「面白くて、少しばかりためになる」
その程度で構わないのです。
その観点において、勧善懲悪による活劇ほど洗練された物語様式はないと考えられます。
勧善懲悪は、無駄なものが一切なく、必要最低限の本質的要素のみによって構成されており、誰でも分かりやすいようにできているのです。
勧善懲悪による活劇は、英雄的な主人公の活躍という娯楽性と、それに退治される悪者の因果応報の末路という教訓性がうまく両立された、完成度の高い物語類型であると断言することができ、最上級の文化的営みとして受け継いでいくべきものなのです。
童心回帰(どうしんかいき)
童心回帰とは、何歳になっても決して大人ぶることなく、純粋な子供の気持ちに立ち返るべきという考え方です。
私たちは、歳を重ねるごとに大人になっていき、汚れて歪んだ価値観に染まってしまいます。
小さかった頃に好きだったことなどを捨て去って、刹那的な快楽におぼれて夜の酒場に入り浸る日々を送る人が増えていきます。
そんな大人の価値観から生み出される作品世界は、「飲む、打つ、買う」と表現されるように、酒と博奕と女への欲求に突き動かされた不純な要素に彩られています。
富や権力への執着、婚前交渉や浮気や不倫の正当化、自分の満たされない願望からくる他者への妬みなど、大人たちによって「本物」として描かれる物語は、どこか禍々しい毒が混入されたものになりやすいです。
大人たちは、それらの大人の世界を「現実的」として捉え、かつて好きだった子供の世界を「虚構的」と突き放すようになりがちです。
しかし、そのような「虚構」を排除した大人の世界に、お金を払ってまで擬似体験しようと思う「夢」や「希望」があるでしょうか?
本当に、そこに「楽しい世界」があるのでしょうか?
それら大人の世界を子供に見せた時、おそらく「楽しくない」と言うはずです。
何故なら、そこには子供が憧れる「夢」や「希望」がないからです。
自分が小さい頃に好きだった物語は、どれもが夢と希望に満ちあふれたものばかりであったに違いありません。
何故なら、それが「楽しかった」からです。
そういう夢と希望に満ちた物語を「きれいごとの子供だましの世界」として見限り、「きれいごとでない大人の世界」に耽溺することは、大人の独りよがりであり、自己満足なのではないでしょうか。
本当に優れた物語は、大人にしかわからないものではなく、小さい子供であっても理解できて楽しむことができるものであると考えています。
そのため、常に子供の頃に好きだったことに立ち返り、大人には幼稚なように思える心こそ前面に押し出していくことが重要なのです。
世代を超えて愛される物語を生み出すためには、次代を築く子供を味方につけることが何よりも優先されるものなのです。
何歳になろうが、決して大人になりきることなく、子供であり続ける努力が必要なのです。