設立背景
|
同人結社鬼姫狂団世界総本部を立ち上げようと思った訳
「昔話に登場する鬼は、どうして人間を襲う凶暴で醜悪な大男というイメージばかりなのか。人間に味方してくれる、心優しく、可憐な女の子の鬼が登場する物語があってもいいじゃないか。物凄く強い女の子の鬼が大暴れしたら、それだけでご飯三杯くらいいけるのに……」
民富田智明が同人結社鬼姫狂団世界総本部を立ち上げようと思ったのは、このたった一つのことに集約されます。
日本には、古来より「鬼」という異形の存在が伝承に残されています。
有名なものでは大江山の酒呑童子伝説がありますが、津々浦々に鬼にまつわる様々な言い伝えがあり、民衆の記憶に刻み込まれています。
それは、小さい子供であっても鬼と言えばすぐに角の生えた人型を連想できるほどです。
まさに、鬼は、日本人にとって最も親しまれてきた異界の住人であるといえるでしょう。
しかし、「桃太郎」や「一寸法師」など、子供が絵本で親しむ昔話の中では、鬼は善なる英雄によって退治されるべき悪の象徴として描かれることが多く、乱暴で醜悪な大男という印象が強く定着しています。
節分の豆まきでも、子供に豆を投げつけられるためにお面をかぶって鬼を演じるのは父親の役目であり、憎まれ役に徹しています。
代表的なごっこ遊びである「鬼ごっこ」でも、鬼は逃げ回る人間を執拗に追い回す脅威としての役であり、敵対者としての性質が如実に表れています。
まるで、鬼という概念すべてが悪そのものであるかのようにも思えます。
ここで疑問を抱くのは、何故、多くの物語の中において、鬼が凶暴で醜悪な大男という固定観念に縛られた存在から抜け出すことがないのだろうかということです。
かつては、その時代の為政者によって統治に反抗する勢力を鬼とみなして討伐の大義名分としていたという事実が確かにあります。
しかし、だからといって、価値観の多様化、差別の根絶が叫ばれるこの21世紀において、そのような権力や偏見によって押し付けられた悪としての鬼ばかり描いてしまうのは、あまりにも視野が狭いのではないかと考えています。
善の人間と悪の鬼という絶対的な二元論による対立構造は、人間が有利に立つための極めて一方的なとらえかたでしかありません。
現実には、人間は必ずしも善とは限らず、善い人間もいれば、悪い人間もいます。
日々、新聞などで取り上げられる犯罪を見ても、決して人間が善玉ばかりではないことは一目瞭然です。
ならば、鬼にも善い鬼と悪い鬼がいて、人間の頼もしい味方となってくれる者もいれば、反対に脅威となる者もいると考えるのが妥当ではないでしょうか。
そのような思索により、昔話の典型のような「善い人間が、悪さをする鬼を退治する」という物語ではなく、「非力な人間のために、強力な鬼が助太刀をし、邪悪を滅ぼす」という物語こそ、異文化間の交流が重視される現代にふさわしい鬼の描き方であると考えています。
そこで、同人結社創作信仰鬼姫狂総本部では、鬼という異形の存在に対して「圧倒的な武勇によって弱きを助け強きを挫く、義侠心に溢れた荒ぶる神」としての性質を強調し、鬼を勧善懲悪を司る正義の味方としてとらえています。
また、人間に男と女がいるように、鬼にも男と女がいます。
女性の鬼といえば、鈴鹿御前や紅葉の伝説がありますが、思春期以降の健全な男子のための物語を描くならば、どうせならかわいい女の子が活躍する話にしたいと思うのが当然です。
絵本に出てくるような、もじゃもじゃ頭に虎皮パンツの鬼を描いたところで、何が楽しいでしょうか。
おっさんの頭に角を生やして何がいいのでしょうか。
かわいい女の子にこそ、立派な角が生えているべきなのです。
「小柄で華奢な女の子が、軽々と武器を振り回し、ありえないくらいに強い」という設定は、10代向けのアニメやライトノベルでは定番ともいえるほど人気が高いものです。
しかし、その辺にいる普通の女の子では、このような設定に現実味がなく、嘘臭いものとなってしまいます。
逆に言えば、人間に似ているが人間ではない女の子であれば、どれだけ超人的な活躍をしても許されるのです。
その、強大な力を持った異形の存在こそが、日本妖怪史上の頂点に君臨する鬼なのです。
鬼には、1000年以上も続く伝承に裏付けされた剛腕怪力の基本設定があるため、「強い女の子」に違和感なく適合させることができるのです。
「頭に立派な二本角を生やした可憐な鬼っ子が、並み居る悪を相手に勇猛果敢に武器を振るい、名もなき民を助けるために戦う。その様に対して、一人でも多くの人に、狂おしいまでに萌えて燃え抜いてもらいたい」
それが、同人結社鬼姫狂団世界総本部を立ち上げた根本的な動機です。
すべては、たった一枚の絵から始まった
![]() |
19歳の頃に心の中に現れた愛すべき妹、「鬼っ子凜ちゃん」。 強くて優しい「姐御肌の妹」が理想の異性像だった。 衣装デザインは、70年代香港のショウブラザーズ映画の影響が強かった。 |
同人結社鬼姫狂団世界総本部を立ち上げたそもそものきっかけとなったのは、たった一枚の絵です。
時は平成17年、映像作家に憧れて東京工芸大学芸術学部映像学科に在籍していた19歳の民富田智明は、小学時代からのあだ名「アッキー」を漢字に当てた「悪鬼(わるおに)」名義で、趣味のホームページ「悪鬼電影有限公司」を運営していました。
その内容は、浪人時代に好きだったマイナーなアニメ「魔法少女隊アルス」のイラストと、ワゴンセールで発掘した中古ビデオのレビューが中心の他愛もないものでした。
最初は、その時萌えに萌えていたアルスの絵ばかり描いていました。
しかし、ある日、心の中に女の子の鬼が現れて、「汝、わしの宿兄(やどりあに)となるべし。絵を描け。話を書け。民に伝え広めよ」と託宣を下されたので、ホームページの看板娘として、その姿を絵にしてみました。
今にして思えば、余りにも稚拙で恥ずかしくなる絵ですが、自分で描いておいて、胸が熱くなった感覚を覚えています。
異性にモテたためしのない、どこにでもいる普通のさえない男である民富田智明にとって、このイメージはまさに理想の女の子だったわけです。
自分で描いたイメージに自分で恋していたのです。
民富田智明は、この鬼っ子があまりにもかわいかったので、取り憑かれたように毎日絵を描き続けていたところ、ある日、心の中に「凜」の一文字が浮かんできたので、この鬼っ子の呼び名なのではないかと考えました。
そして、心の中に現れた妹「鬼っ子凜ちゃん」のために何か物語を描けないだろうかと考え始めました。
それが、すべての始まりでした。
創作活動なんて、結局は、夢想妄想の塊でしかないのです。
芸術性云々なんて、評論家が言うような奇麗事は無用です。
鬼の世界への誘いと、宗教学や民俗学への興味
同人結社鬼姫狂団世界総本部の前身であるホームページ「悪鬼電影有限公司」のイメージキャラクター「鬼っ子凜ちゃん」を生み出した民富田智明は、必然的に鬼というものに強い興味を抱くようになりました。
もともと、民富田智明は幼い頃に「まんが日本昔ばなし」を見て育ったため、鬼や天狗、河童といった妖怪の類が好きで、それらの実在を信じたいという想いがありました。
妖怪の類を信じるというと、変に冷めてしまった「大人」からは馬鹿にされそうな気もしますが、「妖怪と友達になりたい」という子供の頃の想いを大切に抱いていたのです。
そんなある日、当時住んでいた本厚木の駅ビルの本屋で、「絵で見て不思議! 鬼ともののけの文化史」というものを見つけました。
中学の頃から落ちこぼれて、勉強が大嫌いだった劣等生の民富田智明は、こんなもので学者をやっている人がいるのかと衝撃を受けました。
学術書というといかにも小難しくて頭が痛くなるものという先入観があり、大学生でありながら漫画と映画しか摂取していなかった民富田智明は、妖怪について大真面目に熱く語っているこの本に面白さを覚え、夢中になって読み耽りました。
その瞬間から私は鬼の世界の虜となり、「鬼とは何か」という思索を繰り広げる毎日となりました。
そして、神道や仏教、修験道、陰陽道などの宗教思想について調べ、呪詛、幽霊、妖怪など、現代では非科学的とされている民俗文化に触れていくうちに、自分の頭の中に一つの世界観が構築されていきました。
その試行錯誤が、同人結社鬼姫狂団世界総本部の根本である民俗信仰「武州鬼姫信仰」の基礎となったのです。
習作脚本「鬼神童女」シリーズの開始
民富田智明は、19歳の頃に生み出したキャラクター「鬼っ子凜ちゃん」が好きすぎるがあまりに「武州鬼姫信仰」という独自の信仰世界を構築し始め、その熱意は、ついに脚本制作という形になっていきました。
映像学科の授業課題という口実によって、民富田智明は「勝手にシリーズ化計画」というものを発動させ、手始めに3年次のシナリオ演習で「童話 鬼っ子凜ちゃんの冒険・序章編」を書き上げました。
まだまだ脚本の書き方さえよくわかっていない状態のままで、見切り発車ででっち上げたものでした。
この作品では、キャラクターの造形が定まっていない上に、夢オチというご法度を平気で使ってしまうという甘さが見受けられました。
しかし、脚本という形で物語化することによって、「鬼っ子凜ちゃん」というキャラクターが、生きた人格として心の中に住んでいるんだという実感がわくようになり、民富田智明はさらに試行錯誤を続けたいと思うようになっていきました。
その後、民富田智明が所属していた映像表現研究室の3年次最終課題として「鬼神童女」を書き、4年次に他学科履修で受けていたシナリオ概論で「鬼神童女/白刃の姫君」を書き、同じく他学科履修のエンターテインメントシナリオ技法で「鬼神童女/流血無法地帯」を書き、卒業制作として「鬼神童女無宿」を書き、あわせて5本の習作を残しました。
これらの習作を重ねることで、次第に世界観が固まってきて、「鬼神童女遊侠伝」シリーズの構想に結実していきました。
この過程において、「鬼っ子凜ちゃん」が明確に神格化され、崇高な存在として「お凜様」と敬称を使うようになりました。
そして、同人結社鬼姫狂団世界総本部の立ち上げに向けて動き始めたのです。
作者が主体的に活動できる拠点を模索
同人結社鬼姫狂団世界総本部は、現状においては、あくまでも民富田智明の自己資金によって設立された個人運営の任意団体です。
そのため、「鬼神童女遊侠伝」シリーズは、既存の商業流通には乗っていない独立独歩の作品展開を計画しています。
民富田智明が流通手段自体を独自に模索しようとしているには明確な理由があります。
それは、自分以外の第三者の意向によって活動の進退を決められたくないからです。
作品を既存の商業流通に乗せるということは、映像配給会社や出版社に作品の財産権を売ることを意味します。
財産権を売るということは、第三者の資本が動くということであり、第三者が莫大なリスクを背負うということです。
つまり、第三者がリスクを背負う代わりに、相手の意向で進退を決められてしまうということです。
リスクを背負う以上、儲かりそうかどうかという観点だけで作品を評価するのであって、作者の想いや、作品の文化的意義などどうでもよいのです。
そのため、目先の利益を優先して、すぐに売れそうな作品しか買い付けの対象にはしないのです。
仮に買い付けされても、売れなければそれで打ち切りになるので、もはや先はないわけです。
これは、よく考えると、自分の作品なのに、その進退を自分以外の誰かに支配されている状況なのです。
一般論として、たとえば漫画家になりたい人が本を出すには、出版社の編集者に作品を気に入ってもらい、出版の契約を交わす必要があります。
けれども、商業出版に乗るのは儲かりそうだと見込まれた一握りの作品だけで、ほとんどは相手にもされない現実があります。
有名な漫画雑誌に連載されて単行本が本屋に並ぶのは、非常に狭き門なのです。
そして、運よく連載できたとしても、人気がなければすぐに打ち切られる可能性は常に残っているのです。
出版社は、作者から作品を雑誌に掲載する権利と単行本を発行する権利を買っているだけであって、投資が割に合わなければ買うのをやめる自由があるわけです。
商業出版に乗るということは、作品が出版社の都合に左右されるということであって、作者にとっては自由の余地がないのです。
もちろん、商業流通には、大資本で全国展開することによって一気に知名度を向上させるという絶大な恩恵があります。
このようなことは、大資本だからこそできる行為です。
しかし、第三者の資本が関わると、自分の一存で活動できなくなるという代償もあるのです。
「鬼神童女遊侠伝」シリーズは、民富田智明が映像学科時代に始めた「勝手にシリーズ化計画」の延長線上にあり、目先の利益にとらわれずに長期的視野に立って地道に続けている企画です。
たとえすぐに大きな成果が出なかったとしても、誰にも口出しされず、ずっと続けていくことに意味があるのです。
商業流通に乗せるのであれば、その方針は貫けません。
それを実現するには、自分で主導権を握って活動拠点を確立していくしかないのです。
商業流通に乗れば、社会的認知力は高いかもしれませんが、いつ打ち切りになるかわかりません。
自主流通の場合、社会的認知力は低いかもしれませんが、自分が活動を諦めない限りは続けられます。
自己資金で運営しているのですから、一生続けても問題ないのです。
長い目で自分の作品の活用を考えると、インターネットを使って個人でも情報発信ができる時代に、既存の商業流通に乗せることに躍起になる必要などあまりないのではないかと考えています。
当面は個人運営として地道に成果を蓄積しながら機会を伺い、しかるべき段階で商業流通の表舞台に出ることを考えても遅くはないと判断しているのです。
本物の民間伝承と聖地を確立したい
同人結社鬼姫狂団世界総本部では、空想霊武劇「鬼神童女遊侠伝」シリーズ(時代劇、現代劇、未来劇を含みます)を、後世まで残る本物の民間伝承として文化的に定着させることを目指しています。
つまり、歴史への挑戦という誇大妄想にも近い野心を抱いています。
近年、町おこしを目的としたご当地作品が増えています。
ご当地作品を見て愛好家になった若者が、「聖地巡礼」と称して、作品の舞台となった場所を訪ねる旅行をするようになってきています。
創作活動をする上で、物語の舞台をどこに設定するのかは大きな悩みどころになります。
一番手っ取り早いのは、作者が生まれ育った地元を舞台に仕立て上げるという方法です。
地元に愛着のない人はいないはずなので、ご当地作品の増加は必然的な現象といえます。
その地元が作品を通じて活性化したとしたら、作者冥利に尽きるでしょう。
従って、実際にある土地を舞台にした創作物を観光資源として役に立てるという方法は、文化活動と経済活動を結びつける合理的なものであると考えています。
しかし、よくあるご当地作品の動向を見てみると、極めて短期的な一過性の話題として消費されて忘れられていくものが多いように感じられます。
町おこしを目的としているはずのご当地作品が忘れ去られて消えていくのは何故でしょうか。
その原因を推察するに、ご当地作品が、現代の学校を舞台にした単なる女子中高生アニメであることが多いからではないでしょうか。
ご当地作品は、若者に興味を持ってもらうことを狙っているため、10代向けの創作物であるアニメやマンガ、ライトノベルの作風を参考にしたものが多いです。
これらの創作物は、10代の共感を得られる無難な題材ということで、魅力的な制服美少女が登場する学園ものが定番とされています。
そのため、ご当地作品も、女子中高生アニメを作れば人気が出ると判断しているのでしょう。
確かに、女子中高生アニメは、10代の男子を中心に人気が出るかもしれません。
けれども、町おこしという地域社会への貢献を目的とした場合、女子中高生アニメで本当に長く続けられるのかといえば、それは難しいと言わざるを得ません。
何故なら、現代の学校を舞台にした女子中高生アニメには、世界観の広がりがないからです。
女子中高生アニメの舞台は、学校、自宅、友人宅、駅、商店街、公園などの限られた空間しかありません。
学校生活という狭い世界において、壮大な物語を予期することなどなかなかできず、変質した日常を演出する以外にないのです。
ただの女子中高生の日常など、町おこしのための観光資源としては魅力が乏しいとしか言えません。
事実として、ご当地アニメの多くは、終了と同時に過去のものとして扱われ、急速に忘れ去られていきます。
10年後、20年後、50年後に残ることを想定して企画されているとは到底思えません。
単なる女子中高生の制服の魅力には、語り継がれるべき伝承性がないのです。
本当の意味で町おこしにつながる文化を創造するためには、語り継がれるべき伝承性が必要だと考えています。
ご当地作品を観光資源化し、作品の舞台を訪ねる「聖地巡礼」によって長く経済的利益を享受するためには、本質的な意味での「聖地」をいかに成立させるかが重要になります。
つまり、後世まで言い伝える価値のある「由緒」を生み出さなければなりません。
「聖地」を「聖地」たらしめるためには、しかるべき「由緒」による歴史の重みが不可欠なのです。
観光地にあるご当地名物には、必ずなんらかのいわれがあります。
「〇〇の伝説の地、名物〇〇饅頭」のようなものがあると、そこに世界観が広がります。
民間伝承の類は、史実性が疑わしいものも多いとはいえ、普遍的なもっともらしさがあります。
100年経っても語り継がれるべき「由緒」がある場所、それが本当の「聖地」ではないでしょうか。
ご当地作品とはいっても、そのほとんどは3ヶ月13話足らずで終わってしまうような、女子中高生の制服に萌えるために作られた深夜放送アニメです。
それで本当に地域文化の発展につなげられるのかという問題には検討が必要でしょう。
民富田智明は、ご当地作品が3ヶ月で終わる女子中高生アニメに偏りがちな現状に疑問を抱いています。
従って、同人結社鬼姫狂団世界総本部が手掛ける空想霊武劇「鬼神童女遊侠伝」シリーズ(時代劇、現代劇、未来劇を含みます)は、100年後にも伝わる「聖地巡礼」のための「由緒」を語る礎にするために、現代の民間伝承として構想されたのです。